小さい頃はみんなと違うことが嫌だった。
僕には姉が2人いる。
今でもハッキリ覚えているのは、書道セットの件。
姉からお古の”赤色”の書道セットを譲り受けた。
今の小学生たちは自分の好きな色を選び、カラフルなランドセルを背負って学校に通っているってニュースでやっていた。
だけど僕の時代は男は黒、女は赤という不動の”常識”があった。
「赤なんて恥ずかしくて嫌や!」
「中身は同じなんやし、使えるんやから気にすんな」
親とこんなやりとりを何回かしたが、押しの弱い僕は負けてしまい、ずっと恥ずかしいまま学校に通っていた。書道の時間なんてなくなればいい、なんて思っていた。
今は赤は大好きだし、本当にしょうもないことを気にしていたんだなと思う。
でも数百人しかいない田舎の村育ちの小学生の僕にとって、みんなと一緒であること、みんなに合わせること、変な目で見られたくないということが重要な点だった。
”変わっている友達”を見ると、自分もその”変わっている人”と一緒にされたくなくて、少し距離を置いていた。
でも彼らは本当に楽しそうで、ずっと羨ましく思っていた。
「あんなふうに周りの目を気にせず、好きなことに没頭できたらな」って。
そんな僕も、中学、高校、大学、社会人と人生の階段を一つ一つ登り、そして去年シンガポールに来て、考えが段々変わってきた。
色々な人たちに出会い、色々な考えに触れてきた今、自分が好きなことをやって、自分が最高に楽しいことに集中したい、それ以外のことは極力最小限にしたいと思うようになった。
やりたいことが明確になってきたのも一つの理由。
その場しのぎで他人に合わせて動き、時間を使うことが本当に無駄に感じるようになってきた。
何で僕は自分を押し殺して、ここにいるのだろうと。
自分の知らない世界であれば、一回経験としてやってみるのはいいかもしれない。そこから新しい発見、新しい好きが見つかるかもしれない。
でも基本、合わせたところで、お互い楽しくない。
シンガポールが好き、旅が好き、音楽が好き、写真が好き、お酒が好き、海辺でゆったりしたい、、、僕の好きを挙げていくとキリがない。
以前、僕の好きを集めた「偏愛マップ」(ポップな王道が好きでいい。「偏愛マップ」で自分を再確認。)を作ってみたけど、これと完全に一致する人なんて世界に誰1人としていない。(いたら、まぢで会いたい。最高に楽しいはず。)
僕だけじゃなく他の人だって同じ。好きなことが全く同じ人なんて存在しない。
それなのに、たまに何故か「え、何でこれが好きじゃないの?」「これやった方がイケてるよ、ノリ悪いよ」と言ってくる人がいる。
そんなことを言われても、30年間生きてきて、多くのことを経験した結果、好きじゃないし、やっていない。それを好きなのは君であって、僕じゃない。押し付けはダメ、絶対。
彼らは自分と全然違った考えを持った人たちに出会ったことがないのかもしれない。昔の僕のように、自分の好きを隠していた人たちに囲まれていたのかもしれない。勝手に作り上げた”常識”に囚われているのかもしれない。
そっと彼らと距離を置く。
僕は「人が自分と違うことを理解し、当たり前に受け止め、違いがある中でどう一緒に楽しむかを考える人」と一緒にいたいし、自分自身もそうありたい。
好きなことが一緒であるなら、一緒に楽しめばいい。
違うのであれば別行動するか、同じ場所で違うことをやっていても気にしなければそれでいい。
違いを受け入れることって最初は違和感があるかもしれない。
でも一旦受け入れてしまえば、互いに楽になり、居心地のいい関係になれる。
「僕にとっての最高と君にとっての最高は違う」
人は1人では生きてはいけない。でも皆違う。だから、お互い全力で楽しむことができる関係になるには、違いを受け入れることが最初の一歩なんだと思う。
よしかつ(@4shikatsu)
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